日本の受賞者の一覧

2020年代

部門 受賞作・受賞者
2023 審査員大賞(銀獅子賞) 「悪は存在しない」
 濱口竜介監督


悪は存在しない

長野県を舞台に、キャンプ施設の建設計画をめぐって地域に動揺が広がる物語。

金熊賞に次ぐ2位の作品に授与される「審査員大賞(銀熊賞)」と、 国際批評家連盟賞の2冠となった。

濱口監督は神奈川県川崎市出身。 2021年に「ドライブ・マイ・カー」でカンヌ国際映画祭の脚本賞を輝いた。 同年、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭の銀熊賞に選ばれた。 今回のベネチア受賞で、「3大国際映画賞」の全てで受賞を果たした。

なお、2020年のベネチアで監督賞を獲った黒沢清監督「スパイの妻」では、 共同脚本家の一人として台本を書いた。
アジア映画賞 「ほかげ」
 塚本晋也監督


敗戦直後の日本で体を売る女性や戦争孤児らの姿を通して、戦争がもたらすものを描き出した。
クラシック部門 復元映画賞 「お引越し(1993年、相米慎二監督)」4Kデジタル復元版
2022 クラシック部門 復元映画賞 「殺しの烙印(1967年、鈴木清順監督)」4Kデジタル復元版
2020 監督賞(銀獅子賞) 「スパイの妻」
 黒沢清監督


スパイの妻

太平洋戦争の開戦前に、偶然恐ろしい国家機密を知り、正義感から世に明かそうとする男性と妻の物語。

黒沢監督は、自主映画時代から先鋭的なスタイルを貫き、観客を引き付けてきた。本作は自身初となる歴史ドラマ。従前のややマニアックな芸術性から脱け出て、誰にでも分かりやすい秀作エンターテインメントと評価された。

1955年神戸市生まれ。立教大在学中に受講した映画評論家、蓮実重彦の授業に多大な影響を受けた。 8ミリ自主映画が長谷川和彦監督の目に留まり、制作集団「ディレクターズ・カンパニー」へ。「ピンク映画なら撮れる」と言われて撮った「神田川淫乱戦争」で1983年に商業映画デビュー。

1997年のサスペンススリラー「CURE」で注目を集めた。想像力をかき立てる余白を含んだ作風で知られる。カンヌ国際映画祭「ある視点」部門では「トウキョウソナタ」が2008年に審査員賞、「岸辺の旅」が2015年に監督賞を受けた。

蒼井優、高橋一生ら出演。脚本は濱口竜介、野原位との共作。

2010年代

部門 受賞
2015 ランテルナ・マジカ賞 「ブランカとギター弾き」
 長谷井宏紀監督
2011 新人賞(マルチェロ・マストロヤンニ賞) 「ヒミズ」
 染谷将太
(男優)

染谷将太
「ヒミズ」
 二階堂ふみ
(女優)

二階堂ふみ
オリゾンティ部門 グランプリ 「KOTOKO」
 塚本晋也監督

2000年代

部門 受賞
2005 栄誉賞  宮崎駿
(アニメ監督)
2004 技術貢献賞 「ハウルの動く城」
 宮崎駿監督
2003 監督賞(銀獅子賞) 「座頭市」
 北野武監督


座頭市

北野監督の11作目。初めての時代劇。勝新太郎(享年65)でおなじみの名作時代劇のリメーク。 1998年に亡くなった巨匠・黒澤明監督のオマージュでもある。

監督賞(銀獅子賞)に加えて、「観客賞」「オープン2003特別賞」「フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル賞」も獲得し、計4冠を成し遂げた。演出力や構成力が高く評価された。

北野監督のそれまでの過去の作品は、説明的な描写が少なく、理解力や想像力が必要だった。これに対して、本作はテンポのいい娯楽作品になった。これによって客層も広がった。

北野作品はそれまで、海外での高い評価が客足に結びつかず、興行面で苦戦が続いていた 興行収入は2001年の「BROTHER」の9億円が最高だった。 1998年の「HANA-BI」はベネチア国際映画祭で金獅子賞を獲ったものの6億円止まりだった。

こうしたなか、座頭市は国内興行収入28億円を記録。北野作品としては飛び抜けた大ヒットになった。(参照:ムービー・サーカス
2002 コントロ・コレンテ部門 審査員特別賞 「六月の蛇」
 塚本晋也監督

1990年代

部門 受賞
1999 緑の獅子賞(シネマ・アヴェニーレ賞 「雨あがる」
 小泉堯史監督
1997 金獅子賞(最高賞) 「HANA-BI」
 北野武監督


HANA-BI

北野武(ビートたけし)監督の7作目。海外で様々な映画賞に輝いた北野監督にとって、キャリア最高の栄冠となった。

寡黙な刑事の生きざまや心情を描く現代ドラマ。北野監督が主演を兼ねた。脚本も北野によるオリジナル。

末期がんで侵された妻と刑事の夫婦愛を軸に物語が展開。芸術と娯楽性を両立させた奥行き深い作風で、「生と死」「暴力」などのテーマをとらえたとして評価された。

ベネチアでは公式上映では、終了とともに観客から地鳴りのような拍手が起こり、10分間総立ちとなった。北野監督は「テーマが日本的で、まるっきり拒否されると思っていたが、ヨーロッパを意識して映画を撮らなくても、理解してもらえることが分かった」と語った。

この年の5月には、フランスのカンヌ国際映画祭で今村昌平監督の「うなぎ」が最高賞(パルムドール)を受賞していた。海外で日本映画の存在感が高まった。

北野監督は、1989年に「その男、凶暴につき」で映画監督としてデビュー。それ以来、評論家からは高い評価を得ており、キネマ旬報の年間ベストテン入りを連発していた。

海外でも早くから注目され、4作目「ソナチネ」はカンヌ国際映画祭「ある視点部門」に出品。あのクエンティン・タランティーノ監督が惚れこんで米国での上映権をすぐに買ったほどだった(ただし、米国公開は実現せず)。

本作「HANA-BI」で、遂に主要国際映画祭の「コンペティション部門」への初参加が実現。いきなり最高賞を獲った。米国公開も実現。韓国では日本映画の劇場公開の解禁の第一号となった。

北野監督は6年後の2003年にも、「座頭市」でベネチアに出品して監督賞(銀獅子賞)に輝いた。

【あらすじ】西刑事(ビートたけし)は凶悪事件で犯人を追いつめたが、同僚が凶弾に倒れる。これに逆上して犯人を射殺したことが原因で退職。下半身不随の同僚や、殉職した後輩刑事の妻を金銭的に援助するため、ヤクザから借金。返済を迫られ、銀行強盗を働く。不治の病で医師から見捨てられた死期近い妻(岸本加世子)と旅に出る。
1995 撮影賞 「幻の光」
 中堀正夫(撮影監督)
1991 国際映画批評家連盟賞 「無能の人」
 竹中直人監督

1980年代

部門 受賞
1989 監督賞(銀獅子賞) 「千利休 本覺坊遺文(ほんかくぼう・いぶん)」
 熊井啓監督


千利休 本覺坊遺文

社会派作品から文芸作品まで数多くの秀作映画を手掛けた巨匠の代表作の一つ。 前作「海と毒薬」がベルリン映画祭銀熊賞に輝いたのに続く快挙だった。

茶道の達人、千利休(せんのりきゅう)の切腹の謎に迫る。歴史の暗部に正面から挑んだ。

主人公は千利休の弟子、本覺坊(ほんかくぼう)。 本覚坊と、織田信長の弟・有楽斎(萬屋錦之介)が、利休の死期にいたる内面の変化を語り合う形で展開される。

利休と秀吉の息詰まる関係。死の謎の謎を追い、さらに茶道の本質に迫る。乱世の茶人の死生観をくっきりと浮かび上がらせた。

墨絵を思わせるストイックで格調高い映像。 日本的な端正な美学が、世界の心をつかんだ。

奥田瑛二、三船敏郎、萬屋錦之介ら重厚なキャスト陣の熱演も光る。

原作は、井上靖の小説で、本覚坊の日記体になっている。 井上は当初「これを映画にはできないだろう」と考えていたが、超大物脚本家・依田義賢(よだ・よしかた)が書いた推理小説のような脚本を読んで、納得したという。

題名の「遺文」とは、故人が生前に書き残した文章。本覺坊は実在の人物だが、手記「本覺坊遺文」は実在しない。

本覚坊に奥田瑛二、利休に三船敏郎、秀吉に芦田伸介、織田有楽斎に萬屋錦之介という豪華布陣。

三船敏郎は「黒部の太陽」「深い河」でも熊井監督とは組み、厚い信頼関係があった。三船といけば「世界のミフネ」として知られ、侍の役が定番。熊井監督によれば「利休は茶人だが、生き方は戦国乱世の侍」というのが配役の理由となった。

熊井監督は1965年のデビュー以来、キネマ旬報ベストテンの作品賞に3度輝くなど名監督として知られており、九州から東南アジアに出稼ぎに出た女性を描いた「サンダカン八番娼館 望郷」ではアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。

国際映画賞でも常連だった。1987年には、戦中の米軍捕虜生体解剖事件を題材にした「海と毒薬」で、 ベルリン国際映画祭の銀熊賞に輝いたばかりだった。

本作では25年をかけて築き上げた熊井流のリアリズムと一線を画した。利休の死の謎については、すでに自作「お吟さま」で取り上げていたが、 本作では、弟子による「夢とも事実ともつかない詩的な解釈」から真相に迫った。

美術は木村威夫、音楽は松村禎三。

製作:西友

配給:東宝

【あらすじ】千利休の弟子・本覺坊は、師匠の利休が豊臣秀吉の怒りを買って自刃した後、郊外に引きこもり、師の霊と対話しながら日々を送っていた。利休の死から27年後、本覺坊は、織田有楽斎(うらくさい)の茶室に招かれる。有楽斎は信長の弟で、秀吉の主筋。

【熊井啓】1930年長野県生まれ。戦時中は徹底的に軍国少年としての教育を受けた。終戦後、あらゆる国の新旧の映画が洪水のように入ってきて「世界にはこんな素晴らしい映画があったのか」と感動。監督を目指すきっかけとなった。
信州大学を卒業後、独立プロを経て、1954年に日活撮影所の助監督部に入社。帝銀事件をドキュメンタリー風に描いた「帝銀事件 死刑囚」で監督デビューした。
三船敏郎、石原裕次郎共演の「黒部の太陽」を大ヒットさせ、日活を退社。フリーの立場で次々と名作を生んだ。
2001年には「松本サリン事件」を題材にした「日本の黒い夏 冤罪」でベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞。 2007年、クモ膜下出血で倒れ死去。享年76歳。映画への情熱は冷めることなく、亡くなったときに3本の企画を進行していた。
1982 栄誉賞  黒澤明
(監督)

1960年代

部門 受賞
1967 国際映画批評家連盟賞 「上意討ち 拝領妻始末」
 小林正樹監督
1965 男優賞 「赤ひげ」
 三船敏郎


赤ひげ

「世界のミフネ」による2度目の男優賞。貫録の演技だった。

「赤ひげ」は黒澤監督らしいヒューマンな一面が色濃く出た作品。監督が自ら「集大成」と自負していた。 黒澤と三船という世界に冠たる黄金コンビが組んだ最後の作品となった。

青年(加山雄三)が、所長の赤ひげ(三船)のもとで働くうちに、真の医療に目覚めていく人情ドラマ。

三船敏郎(みふね・としろう)は、日本映画界の至宝。

野性味あふれる演技で多くのファンを魅了した。「日本映画ここにあり」を世界に知らしめた不世出の俳優だった。

海外の作品にも数多く出演。「トラ・トラ・トラ」、スピルバーグ監督の「1941」、アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演した「レッド・サン」などが有名。

世界の映画祭では三船が現れると総員起立の拍手がわく。人気もケタ外れだった。

中国の青島で、写真店を経営する父親の長男として生まれた。太平洋戦争にも従軍した。

終戦後に帰国。1946年、カメラマン助手を目指して東宝を受験する。 ところが、履歴書がなぜか新人俳優募集の担当に回され、「東宝第1期ニューフェース」として入社した。

1947年のデビュー作「銀嶺の果て」(谷口千吉監督)で編集を担当した黒澤明監督の目に留まり、翌1948年の「酔いどれ天使」から、本作「赤ひげ」まで16本の黒沢作品に主演した。

ベネチアの金熊賞を獲った「羅生門」では、黒澤が猛獣映画の豹(ひょう)のクローズアップを見せて「今度のおまえの役はあれだ」と説明しただけでヤブを走り回るあの野盗を演じた。

クロサワ、ミフネは、まさしく戦後日本の飛躍を代表する存在となった。

一方で妥協を許さない演出で知られる黒沢監督に、三船さんは次第に息苦しさも感じていたようだ。「赤ひげ」の直後、酔った三船さんが黒沢監督の自宅に日本刀を持って乗り込み、窓ガラスを破るなど大暴れをしたエピソードも残っている。その後は三船さんが自ら映画製作に乗り出すなど、コンビを組むことはなかった。

黒澤明監督と三船さんが最後に会ったのは1993年の本多猪四郎監督の葬儀。三船さんは心臓病の療養中で、ツエをついていた。互いの姿を認めると、どちらともなく近づき抱き合った。二人とも涙を流していた。歳月が二人の間に残っていたわだかまりを氷解させたのかもしれない。

三船氏は1992年10月に東京都内で開かれたパーティーの席上、心臓発作で倒れ、2カ月間入院した。その後、認知症の症状が出るようになった。公の場にあまり姿を見せなくなった。

最後に出演した映画は1995年の「深い河」(熊井啓監督)。戦争中に飢餓のあまり戦友の人肉を食べたことに死ぬ間際まで苦しみ続ける男の役柄だったが、芳しくない体調と闘いながら見事に演じ切った。

1997年12月、全機能不全のため死去。享年77歳。

世界的スターになった後も、勤勉な仕事師として有名だった。撮影がどれだけ長時間に及ぼうと衣装を大事にするため、決して腰を下ろさなかった。また撮影所に入るのが尋常でないくらい早かった。 「千利休 本覚坊遺文」「黒部の太陽」などでタッグを組んだ熊井啓監督によれば、「明け方から発声練習。役の集中力のピークで入ってこられる人でした」

三船さんは台本を現場に持ち込まない人だった。セリフは完ぺきに覚えていた。

「千利休 本覚坊遺文」の撮影現場で、熊井監督はある朝、「ちょっとお話があります」と三船さんに呼ばれた。

控室には風呂敷包みに台本、漢和辞典、千利休の資料がいっぱい。数え切れないほど読んで分厚くなった台本のある文字を指し、この字が辞書や資料で調べてもどうしても分からないのだ、とたずねた。 実は台本の「わび」の漢字が誤植になっていた。分からないのも無理はなかった。それくらい仕事に対して真摯(しんし)な人だった。
サン・ジョルジョ賞 「赤ひげ」
 黒澤明監督
1961 男優賞 「用心棒」
 三船敏郎
1960 サン・ジョルジョ賞 「人間の條件(じょうけん)」
 小林正樹監督

1950年代

部門 受賞
1958 金獅子賞(最高賞) 「無法松の一生」
 稲垣浩監督


無法松の一生

人情味溢れる風俗や、豪快で生一本の男が描かれる。思慕を表情に出しながら、ぎりぎりのところで抑える武骨な男をめぐる叙情性が共感を呼んだ。

北九州市の小倉が舞台。主人公は、人力車夫の「無法松」こと松五郎。無法松は乱暴者だが義理人情に厚い。出入りしていた軍人の未亡人一家に尽くす。

原作は、作家岩下俊作の小説『富島松五郎伝』。小倉出身の岩下が1939年、地元の「九州文学」に投稿し、直木賞候補になった。劇作家の岩田豊雄が「自己犠牲の物語だから、今の社会に十分通用する」と文学座で上演した。

さらに大映が1943年、「無法松の一生」と改題して映画化した。伊丹万作が脚本化し、稲垣浩監督が監督を務める。伊丹は当初、自ら監督するつもりで脚本を書き、男親のあるべき姿を作品に託したといわれる。

太平洋戦争の末期、戦意高揚を狙った映画が多い中、男の純情を描いた映画は、評判を呼んだ。

ただ、政府の検閲で10分ほどカットされた。削除されたのは、軍人の妻だった未亡人に恋情を抱いていたことを告白する場面など。理由は、市井無頼の車夫が、帝国軍人の未亡人に恋慕の情をもつなど、もってのほか、というものだった。

戦後の1958年になって、やはり稲垣監督がメガホンをとり、カットされた部分を復元したのが本作。伊丹の脚本に忠実にリメークされた。白黒からカラーに。「羅生門」「七人の侍」などで世界的に知られるようになった三船敏郎が、主人公・松五郎を演じた。夫人は高峰秀子が演じた。
1956 サン・ジョルジョ賞 「ビルマの竪琴」
 市川崑監督
1954 監督賞(銀獅子賞) 「七人の侍」
 黒澤明監督


七人の侍

日本映画に類を見ない大型アクション時代劇。戦国時代、野盗となった野武士たちから村を守るため、貧しい農民たちが雇った7人の侍たちの闘いを描く。

従来の時代劇が形だけのチャンバラに終わっているのに飽き足らなかった黒澤監督が、可能な限りリアルに戦国の世を描こうとした。登場する七人の役どころが細かに描き分けられており、人間ドラマとしても秀逸。

世界の映画界を驚嘆させた。本作を原作とする西部劇「荒野の七人」がアメリカで6年後に製作され、大ヒット。西部劇の歴史に残る傑作と評されている。

野武士が馬で村に乱入してくる雨中の合戦シーンでは、初めてカメラ3台を使って同時に撮影、編集した。以後、このスタイルは黒澤作品では定着した。

上映時間3時間27分の大作。
監督賞(銀獅子賞) 「山椒大夫(さんしょうだゆう)」
 溝口健二監督


山椒大夫

溝口監督の2年連続の監督賞となった。 前々年には国際賞をとっており、3年連続の栄冠となった。 今回は黒澤明監督とのタイ受賞。

溝口監督は、海外で黒澤明、小津安二郎と並び、日本が生んだ巨匠として高い評価を受けている。

長回しや、奥行き深く見せる「縦の構図」など、優れた技術で観客を圧倒。一方で、人間を描ききる的確な演出で涙と笑いを誘った。

溝口のベネチア受賞について、映画評論家の蓮實重彦は「溝口は無声映画時代から30年のキャリアを誇る『古典的』な作家だった。彼の受賞は、サイレント期以来の日本映画の質の高さを世界に知らしめた。同時に、古典的な現役映画作家はアルフレッド・ヒッチコックとハワード・ホークスで十分と考えていた欧州の映画好きの若者に、大きな衝撃を与えた」と語る。

「山椒大夫」は、森鷗外の代表作の映画化。カメラが海辺にパンするラストシーンまで見る者を引き付けて離さない。

【溝口健二(1898~1956年)】
1898年東京生まれ。1920年日活(東京の向島撮影所)に入社。
無声映画時代の1923年、監督デビュー。関東大震災によって京都の撮影所(日活大将軍撮影所)に移り、以後、京都を中心に活動する。
1936年の「浪華悲歌」「祇園の姉妹」で日本映画のリアリズムを確立。 戦後も「西鶴一代女」「近松物語」など名作を生んだ。
ベネチア連続受賞の2年後の1956年、白血病のため急死。 次回作「大阪物語」のロケハン中だった。
1953 監督賞(銀獅子賞) 「雨月(うげつ)物語」
 溝口健二監督
 

雨月物語

上田秋成の原作をもとに、日本映画を芸術の域にまで高めた傑作と評される。

効果的なクレーン撮影などで、幽玄美を映像化した宮川一夫のカメラや、美術セットも超一流。

【あらすじ】時は乱世の戦国末期。琵琶湖周辺で羽柴秀吉と柴田勝家の軍勢が競り合っていたころの話。

戦火のドサクサにまぎれ、こんな時こそ商品は高く売れると一獲千金の野心を起こした近江の陶工、源十郎(森雅之)は、妻の宮木(田中絹代)や妹阿浜(水戸光子)とその夫(小沢栄)も動員して、大量の陶器を作り、舟で町に売りに出る。
1952 国際賞 「西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)」
 溝口健二監督


女性の情念を冷徹なリアリズムで描き続け、「女性映画の巨匠」と呼ばれた溝口監督の戦後の代表作。

出演・長谷川一夫、香川京子ら。
1951 金獅子賞(最高賞) 「羅生門(らしょうもん)」
 黒澤明監督


羅生門

いきなり最高賞の獲得。日本映画の芸術性を、世界にとどろかせるきっかけになった。

敗戦に打ちひしがれていた日本人の心に、勇気と感動を深く刻み込んだ。 水泳の古橋広之進選手の世界記録の連発や湯川秀樹博士のノーベル賞受賞のような、国民的な朗報だった。

一つの事件を複数の人間の視点で回想する。 盗賊、侍の霊、妻の三人三様の言い分は食い違う。 真実を観客に向けて問う。 後に世界の映画製作者や研究者の間で「羅生門形式」と呼ばれるようになるスタイルを打ち出した。

芥川龍之介の短編「藪(やぶ)の中」を原作とし、脚本は橋本忍と黒澤が手掛けた。

映像美も世界に衝撃を与えた。 当時、カメラを直接太陽に向けるとフィルムが焼けると言われていたが、そのタブーに挑戦した作品としても有名だ。

出品に尽力したのは、東京でイタリア映画の輸入配給を手がけていたイタリア人女性ジュリアーナ・ストラミジョリさんだった。 ストラミジョリさんは日本文化研究者でもあった。 本作を「人間というものの本質にふれている」と評価した。 大映に出品を持ちかけて翻訳や手続きをすべて請け負い、送料も全額負担した。

当初ベネチア側は、黒澤監督の「酔いどれ天使」(1948年)、または「野良犬」(1949年)を出品するよう強く求めた。 しかし、ストラミジョリさんは断固として「羅生門」を推した。

当の黒澤監督も、自分の作品が映画祭に出品されたことさえ知らなかった。

羅生門の受賞を機に、日本で国際映画祭熱が一気に高まった。 1950年代はまさに日本映画の黄金時代となった。

三船敏郎、京マチ子の熱演も見もの。撮影の名手・宮川一夫も絶賛された。

1930年代

部門 受賞
1938 イタリア民衆文化大臣賞 「五人の斥候兵(せっこうへい)」
 田坂具隆監督